9月23日から26日にかけての飛び石連休。谷間の24日に休暇が取れそうなので計4日の山行をいろいろ考えてみたが、アルプスで花の夏は終わり、といって紅葉には早すぎ…と、要するに4日かけるに足るような高山では何とも中途半端な季節なのだ。で、ふと思いついたのが小辺路(こへち)である。高野山と熊野本宮、二つの聖域を結ぶ信仰の道をたどる全行程3泊4日の山旅だ。こんな機会でもなければ歩くことはないだろう。「紀峰山の会」のミーティングで提案したところ、その場で2人の山仲間が応じてくれたのだったが、後日、日程的に無理と連絡があってパーティ解消。結局、単独で行くことになった。

 空海が開いた真言密教の総本山・高野山、役行者が開いた修験道の聖地・吉野大峰、そして「日本の源郷」とも呼ばれる自然信仰と蘇生の聖地・熊野三山、この三つの霊場と参詣道(高野山町石道、大峯奥駈道、熊野参詣道)が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産(文化遺産)に登録されたのは2004年7月7日のこと。うち小辺路は熊野参詣道いわゆる熊野古道のひとつで、その名称は田辺から富田川(中世は岩田川と称した)を幾度も徒渉しつつ東進し本宮から新宮速玉に至る中辺路、同じく田辺から海岸沿いに南下し那智山に至る大辺路とセットになっている。

 
 

 「小」の字を充てた理由は定かではないが、恐らく他二本の参詣道に比べ短いことを指したものだろう。小辺路は約70kmと最短である。だが、行程中には伯母子(おばこ)峠、三浦峠、果無(はてなし)峠と標高1000mを抜く三つの峠を擁しており格段に険しい。それゆえに現代に至るも開発を免れ、アスファルト道路で寸断され消滅すらした他の参詣道に比べれば往時の面影が色濃く残っており、最も古道らしい古道とされている。なお「辺路」は本来、辺鄙(へんぴ)なところを指す言葉で、別の字を充てた「遍路」も同意。つまり、紀伊山地のお遍路さんは辺路を行くわけだ。

 そんなことをつらつら考えているうちに、「小辺路はいいですよお…」と、ご自身の何度目かの小辺路歩きへの同道を誘ってくださった中辺路在住の山の作家・宇江敏勝さんの穏やかな声も蘇って聞こえた。そのときは仕事の都合がつかず見送ったのだったが、これは行くしかあるまい。そこで準備のためつぶさに読んだのが古道歩きのバイブル『熊野古道を歩く』(山と渓谷社)だ。監修者は宇江敏勝さんその人である。

23日、JR和歌山駅から和歌山線5時34分発の始発で橋本に向かい、南海高野線、同高野山ケーブル、路線バスを乗り継いで高野山の中心金剛峯寺に近い千手院橋バス停に着いたのが8時20分。バスを降り、さあ金剛峯寺に参拝して出発...と思って歩き始めたら、いきなり叩き付けるような土砂降りの雨だ。ん〜、和歌山県北部地方は8月12日以来、実に40日間ほとんど降水ゼロの砂漠状態だったというのに、よりによってここで降るかあ! 恵みの雨に違いないのだが、よほど日頃の行いが悪いということなのだろう。

 雨の金剛峯寺 
 あまりの土砂降りに歩き出すのがためらわれ、しばらく山門で雨宿りをしていたが、やや雨脚が弱まったのを見て8時40分、最初の一歩を踏み出した。金剛峯寺から小辺路へは、高野山大学の前の道を東進し、金剛三昧院の案内がある路地を入って同院手前を右折する。そこに小辺路の標識があるのだが見落とし直進して行き詰まり、土地の人に教えてもらって引き返した。そこから20分ほどで高野七口の一つ大滝口。七口とはかつて女人禁制だった高野山が、登山道の終点近くに女人堂を設けた所のことで山上伽藍を取り巻くように7ヵ所あり、女性はこれより奥には入れなかったそうだ。もちろんそんな禁はいまは解かれ女人堂も現存していない。 
 薄峠 

 そこから未舗装の林道をとぼとぼ歩くと薄(すすき)峠で、ここで林道と別れ山道に入ってゆく。道はぐんぐん下り、やがて御殿(おど)川にかかる赤い橋を渡って対岸中腹の大滝集落へ急な舗装路を登ってゆく。集落を通り抜ける直前にトイレと東屋が設けられており、ちょうどよい頃合いだったので休憩しようとベンチにリュックを降ろした瞬間、いきなり強い雨が降ってきた。慌てて東屋の中に逃げ込んだのだったが、それから半時間、空は黒い雲で覆い尽くされて横殴りの猛烈な雨風に加え雷鳴が轟いた。しかしなんとまあ、絶妙のタイミングで避難できる場所に到着したものだ。日頃の行いの報いではあろうが、悪運、まだ尽きてはいないようである。

 大滝集落の東屋で大雨

 ようやく風が収まり、雨も控えめになったのを見て再スタート。山道を1時間の登りで高野龍神スカイラインに飛び出し、20分で村営レストラン鶴姫に着く。本来は途中の水ヶ峰分岐から再び山道に入るのだが、鶴姫の手前から始まる林道を歩いても合流できるので、温かいうどんでも口に入れようと立ち寄った。勘定を終えて雨合羽をまとっていると、この店を切り盛りする若い夫婦から今夜の宿を尋ねられたので「かわらび莊」だと応えたら、奥さんが「母の実家です」という。 野迫川村、人口わずか600余。奈良県内最小の自治体だが、人数が少ない分だけ個々の人間同士の距離は近いのだろうと思った。

 
高野龍神スカイラインにあるレストラン鶴姫
13時5分、鶴姫を出てスカイラインを少し戻り、林道タイノ原線に入る。少し登ると左手から小辺路の本道が合流し、それからは延々と林道歩きになる。所々山道にエスケープする所もあるが基本的にはアスファルト舗装の林道歩きで登山靴では相当疲れる。靴底の柔らかい運動靴が欲しいところだ。地蔵のある平辻からは一気に川原樋(かわらび)川に向かっての下りとなり15時5分、初日のゴールである大股に着いた。
 平辻の地蔵、辛うじて「右くまのみち」と読める

 大股のトイレにある公衆電話で「かわらび莊」に連絡すると、5分も経たず四駆が迎えに来てくれた。それに乗るなり、運転していた若主人が「鶴姫に寄られましたか?」と尋ねてくる。「寄りましたが連絡がありましたか?」と返すと、「弟から電話がありました」とのこと。なるほど「鶴姫」の奥さんにしてみれば義母の実家というわけだ。釣り人の宿といった風情のかわらび莊にいったん荷を降ろし、さらに上流の野迫川温泉に送ってもらって汗を流した。露天はないが清潔で気持のいい温泉だ。かわらび莊の紹介ということで日帰り入浴料800円は半額にしてもらえる。宿の夕食は、塩焼き、天ぷらに南蛮漬けのアマゴづくしだった。

 釣り人の宿といった風情のかわらび荘

 24日、宿から大股まで送ってもらい、7時35分に伯母子峠への登高開始。川原樋川を小さな橋で渡った大股集落内の生活道路からいきなり胸を突くような急登で、出会ったお婆さんと老犬ににこやかに手を振って歩き始めたが、この急登が1時間半ばかりは容赦なく続く。道中はほぼすべて杉の人工林を縫っており変化に乏しいが、8時20分に萱小屋を過ぎ、急坂を登り切った桧峠から先は、打って変わってブナやミズナラの老成木が主役の素晴らしい天然林となる。

 萱小屋
     
     桧峠              古い道しるべ、左に「くまのみち」とある
 9時50分、伯母子岳分岐。小辺路は伯母子岳を迂回して伯母子峠に至るが、ここまで来てピークを外す手はないので少し遠回りになるが山頂を目指す。雨で深い森の中は夕暮れのように暗く、朝イチにあのお婆さんと犬に手を振ってから人っ子一人出会わない。静かなのはいいが少々不気味だ。この日は終始、リュックに付けた熊よけのカウベルと風にそよぐ葉擦れの音だけが道連れだった。その暗い森を抜けた草地が標高1344mの伯母子岳頂上で、「360度の展望」と案内にあるが一面ガスに包まれて何も見えない。
 
伯母子岳への登り 見事な天然林だが薄暗くて寒い 
 
伯母子岳頂上、ガスで何も見えない
 山頂から東へ下るとすぐに伯母子峠に飛び出す。峠には立派な避難小屋とトイレがある。健脚なら高野山からその日の内にこの小屋に達し、二日目には十津川温泉に抜けることも可能だろう。伯母子峠といえば、川村たかし(あのロクでもない河村たかし名古屋市長とはもちろん別人)作になる全10巻、登場人物858人という児童文学の金字塔『新十津川物語』で、明治22年の大水害により全てを失った十津川郷の600家族 2,489人が北海道トック原野への移住の旅に出立し、二度と帰ることのない故郷を最後に振り返って涙を振り絞ったところだが、この日、その十津川郷はミルク色の霧の底に沈んだままだった。

伯母子峠 立派な小屋とトイレがある
  
かわらび荘で作ってくれた弁当。 昔懐かしい竹皮で包んだシンプルなおにぎりが二つ。   
…が、ひとつで一合飯くらいある。 とても無理! 一個は翌日の弁当に回した。

 そこから2時間ほどの下りは小辺路全行程の白眉と言うべき見事な天然林の中の快適な散歩道だ。11時半に石垣が残る上西家跡、11時20分に水ヶ元茶屋跡、13時半に待平跡と、それぞれ森の中のチェックポイントを通過しながら下り14時5分、五百瀬(いもぜ)集落の三田(びた)谷橋にゴール。そこから神納(かんの)川沿いに少し下りトンネルを抜けた右下に今夜お世話になる農家民宿「政所(まんどころ)」がある。

 最近発見された石畳の道
 この日のゴール三田谷に到着

 この「政所」は主屋、薬医門形式の表門、そして棟札の3点が奈良県指定有形文化財となっている。その棟札によれば主屋の建築は享保10年(1725年)11月。といえば、紀州家出身の徳川吉宗が八代将軍となって江戸城で頑張っていた頃で、つまり築300年近い十津川村で最も古い民家ということだ。この主家のすぐ裏の山手には祠(ほこら)があって、これが「平維盛(これもり)」の墓と伝える案内板が立てられている。


県指定有形文化財「辻家住宅」の重厚な表門、薬医門形式というらしい

さらに接近してみると… 老犬マグが「文化財」を守っていた
 維盛は平清盛の孫で光源氏の再来と呼ばれるほどの美男子だったが武将としての才覚はなく、木曾義仲との戦いでさんざんに打ち破られた後、源氏に追われ平家一門が都落ちしてゆく途上で離脱し高野山で出家、熊野三山を参った後に紀伊勝浦沖の山成島付近で入水した...と「平家物語」は伝えているのだが、それは頼朝の追討を逃れるために流した流言で、実はさる所へ落ち延び後世に…といった伝承が実はいくつか残されていて、この五百瀬の里もその候補地のひとつなのだ。維盛が高野山から熊野に向かったとすればそのルートはこの小辺路以外に考えられないわけだから、確かにその可能性はある。
 
主屋の裏山に維盛の墓という祠が見える
 伝承によれば、維盛の子孫は代々小松姓を名乗り、桓武天皇以来の平家の宝刀「小烏丸(こがらすまる)」を伝え、その住居を「政所屋敷」と称したという。だが明治以後、小松家は急速に没落しやがて一家離散、その際に小烏丸も行方不明となって、住居はいまお住まいの辻さんの祖父が「政所」の屋号ともども受け継いだそうだ。などと書けばどんなすごいお屋敷かと思われそうだが、重厚な表門を除けばごく普通の古民家である。
  辻家住宅の全景


部屋はこんな感じだ。もちろん細かな改修はしているが、梁や柱や戸板は300年物。間取りも変わっていない。江戸時代の山の暮らしぶりが偲ばれる。
 最初、この「有形文化財」の入り口がわからず、間違って勝手口のガラス戸を開けると、たまたまそこに立っていた辻育子さん(70ン歳)が満面の笑みで迎えてくださり、風呂や寝床だけでなく、好意に甘えて汚れ物の洗濯までお世話になってしまった。300年物の部屋で黒光りする柱を見ながらウイスキーを飲んでいたら、どうせならこっちでと声がかかって3時半には早くも夕食。自家製の野菜が中心で素朴だがとびきり美味しい。息子の成晃さんを交えて四方山話に花が咲き、まるで親戚の家に来たような気安さで一晩を過ごさせていただいた。
 
見送ってくださる辻さん親子、マグは無視してもっぱら朝ご飯

  翌25日は、辻さんや老犬マグと記念写真を撮り、7時25分に政所を出る。育子さんは私の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくださった。10分歩いた三浦口で神納川を渡れば登山口で、「三浦峠まで3時間」とした標識にならび、五百瀬小学校児童の手で「いまからがんばれ」と大書した看板があって苦笑させられる。その五百瀬小学校は政所のすぐ向かいにあったのだが、児童が減り数年前に廃校となったそうだ。
 
秋の実りの五百瀬集落、右奥が廃校となった「いもぜ小学校」


  

三浦峠への登山口              歩き始めてすぐカツを入れる看板(^_^;)
  

三浦集落の棚田                     石畳の急坂を登る

吉村家屋敷跡の防風林。生命のすごさを感じさせられる

  登りはじめると間もなく稲刈りを終えた棚田が目に入る。この寒さで何とか間に合った彼岸花が秋の刈田によく似合う。そこから石畳の道に入り、約半時間の登りで吉村家屋敷跡。かつての防風林が巨大で奇怪な杉のオブジェとなって立ち並んでいる。小辺路を紹介した写真で必ず取り上げられる光景だ。そこから三浦峠までは杉林の中をただ黙々と登る。この日も山中ではただの一人も出会わない。一人きり薄暗い森の中を歩いていると、背中でチリンチリンと鳴る熊よけのカウベルがいつか、お遍路さんが左手に持つ「持鈴」(じれい)にも思えてくる。

 持鈴は読経に節を付けたりご詠歌を奉納するときに使うが、山道を通過する際には魔除けの意味もあったと言うから、まあ考えてみれば似たようなものかもしれない。その持鈴の透明に澄んだ音には巡礼者の煩悩を払い、精神を浄化する働きがあるというのだけれど、自慢じゃないが歩く煩悩を自認する汗だくの登山者にはカウベルの音も暑苦しく、ただただ冷えたビールが恋しいばかりだ。

         
水場、「山のぼりではむりをしない」、はいはい…           三浦峠
  林道と交差する三浦峠には9時50分着。あたりは広く伐採されていてトイレと東屋があるが展望はきかない。少し休んで下りに入り、矢倉観音堂に11時45分着。バスの時間に余裕があるので1時間たっぷり休憩し、13時5分にこの日のゴールと決めていた西中バス停に着いた。
   
苔むした石仏             人工林と天然林が混じる道


  

矢倉観音堂               西中側の登山口に到着、上は熊出没の警告

 小辺路は西中からさらに西川沿いに十津川温泉まで下るのだが、味も素っ気もない舗装路9kmを登山靴で足を痛めながらドタドタ歩くほど「完歩」へのこだわりはない。幸いに...というべきか日頃の善行のご褒美というか、バス停の隣がたまたま酒類も商うよろず屋だったのでそこで念願のビールを仕入れて痛飲、日陰で本を読みながら14時2分発の十津川温泉行きバスを待ち、14時35分、十津川温泉の田花荘に投宿した。
 
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